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pochiさんへ 「やっぱり止めて置こう」についての考察 | ヴァイオリン掲示板

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雑談・その他 10 Comments
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pochiさんへ 「やっぱり止めて置こう」についての考察

投稿日時:2004年06月13日 08:12
投稿者:ぷーた(ID:GHF3cWM)
http://www.fstrings.com/board/index.asp?id=9927&t=
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Re: 「間」について

投稿日時:2004年02月14日 02:14
投稿者:pochi(ID:QldGBIA)
西洋伝統音楽の上で「間」を、無理矢理訳するとしたら、"Direction"「方向性」だと思います。

NHKラジオのアナウンサーの、無言の「間」は、西洋のラジオには、私の知る限り存在しません。

ぷーた氏の演奏には、この「方向性」を感じたのですが、「これ以上はダメだ。やっぱり止めて置こう」という自制心が演奏に表れているのです。だから、私には、大人びた演奏に聞えるのです。もっと、感じたまま自由に奏いて欲しい。

囲碁・将棋を嗜む方も多いと思います。「石が伸びる」「駒が伸びる」なんていう言い方が有りますが、昔のアマチュアの棋士達は、物理的に伸びていました。囲碁なら、目から外れる位、将棋なら、桝一杯に延ばして差す、下品な打ち方です。

私の習った西洋伝統音楽は、リズムの範囲内(リズム・音程を少し崩してでも)で最大限に(音程・リズム)の幅を活用せよとの事だったのです。現代の奏者とは、かなり違います。然し、崩し方に有る一定の法則が有り、この法則を守らないと、「カンツォーネの演歌」・「演歌のツィガーヌ」になってしまいます。それはそれで良いのではないか?と思っている今日この頃です。

この「方向性」が、何度も書き込んでいる「西洋音楽の諸法則」の一部であり、"Essence"「急所・灸所?勘所」だと思います。
 pochiさんの投稿
>「これ以上はダメだ。やっぱり止めて置こう」という自制心

僕は小さいころから、親や教師の保護を受けずに、言い換えれば言うことをきかずに、演奏を行ってきました。周りから「コウヒキナサイ」といわれてその通り演奏するなら、その音楽は周りから安全が保証されていますが、それに背くなら自分の出した音には責任を取らなければならない。僕はプライドが高いので、自分で責任が取れないような演奏はできません。自制心を失った自分を人前でさらけ出すのが怖いのです。周りの言うことを聞かないのだから、それぐらいの覚悟が無くてはならないことは承知です。でも、僕は「自分の音に責任を取らない演奏」を、「無神経な演奏」だと忌み嫌います。「品性」と「誠実さ」は演奏の要素の中でも大きなウェイトを占めるのです。これらを犠牲にすることはできません。
「自制心=自分の演奏に責任を取る(取れる範囲でしか演奏しない)こと」として、僕なりの考察を示してみました。如何でしょう?
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Re: pochiさんへ 「やっぱり止めて置こう」についての考察

投稿日時:2004年06月13日 12:02
投稿者:pochi(ID:GZFmNjE)
私は、頭が悪いので、直ぐには回答を出せませんが、ぷーた氏がこの投稿を消す事を防ぐ為に書き込んで起きます。私は私なりに考えて居りますのでもう少しお待ち下さい。それでは、、、。
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Re: pochiさんへ 「やっぱり止めて置こう」についての考察

投稿日時:2004年06月13日 16:15
投稿者:pochi(ID:InU4Nwc)
まず、私は、西洋伝統音楽を、祭司の一部(だった)・買春・乞食と不可分なものとして認識して居ります。クラシックバレイは、高級娼婦の品評会だった事は、賢明なるこの掲示板の読者なら、御存知かと思います。此れに対する反論は、幾らでもお受け致しますが、面倒だし、直接ヴァイオリンには無関係なので、良くオベンキョしてから、反論して下さいね。

私、素行不良の問題児でしたが、音楽に対してだけ、「真摯で謙虚」であろうと心掛けて居りました。どれだけ美しく弾くかという事を突き詰めました。先生と云う職業は、才能が無いから仕方無く遣って居ると見縊って居りました。素行不良が激しかった為、誰も私がヴァイオリンを弾いて居るなんて思いも寄らなかったらしいです。大學時代は更に無茶苦茶で、警官を殴ったり、暴走族から単車を奪ったり、街の中でヤクザと喧嘩をして、大怪我を負わせたり、証拠が残らない様する悪質且つ徹底的な悪ガキでした。W大學のスーパーフリーは、一人では何も出来無い根性無しの集団ですね。私は、異性から常に付纏われて、逃げ回って居りました。そんな昔が懐かしくも有り、恥ずかしくも有ります。大學時代はファンが多くて、嫉妬深い男連中に「あいつに近付いたらそれだけで妊娠する」何て云われて居ました。無頼派が居ると聞き付け、わざわざ遠方から私の演奏を聞きに来て、「性格と演奏は別物なんですね」何て悪態を吐いて帰った人も居ました。普段の素行としての品性と演奏は別物だと思います。(私は19再のジョシダイセイですが、此の辺りの矛盾はお愛嬌という事で済ませて下さい)

第二次世界大戦以前に巨匠だった人に、「音楽は瞬間の芸術なので、自分の出した音に対して責任を取る必要は無い」・「演奏の瞬間、音楽家は、祭司として、作曲者・観客と一体となって、音とその精神性を神に捧げるのものである」・「其れを見ているもう一人の自分が無いと、一人善がりの演奏に成る」「録音は、自分が次の演奏をする為の資料としての価値しか無い」、パトロンには、「音楽家は、舞台上以外のトコロでプライドを持つ必要は無いが、街で観客の誰かと遭遇する事も考えられるので、服装だけはキチンとして置きなさい」「ヴァイオリン弾きはSnobの定義見たいなものだから、謙虚に見える様にしなさい」何て教えられました。私は何でも裏読みする傾向が有るので、「丸木度佐渡」の様に祭壇で恥音したり、ストリップの裏方音楽をヴァイオリンで弾いてみたり、ボロボロの服装で、誰も私だと解らない様にしたり、「コウヒキナサイ」と云われたトコロをワザと正反対の練習をしたり、自分なりの試行錯誤をして居りました。一般的に、先生に云われた事の正反対を行うのは、非常に効果のある練習法だと思います。少しずらして練習するのが最も悪い練習法だと思います。

少し、日本の伝統的文化に敷延します。
娼婦と恥音した時、娼婦は必ず「気を遣る、若しくは気を遣る振りをする」と、娼婦の回想録等に屡々書かれて居ります。現代でも同じなんだそうです。(こんな話題を書き込むと、女性差別だ!何て云うノータリンは、相手にしません)金銭授受を以て買春と定義付けますが、元来、神様に捧げる御賽銭の様なものなのだそうです。江戸時代、遊廓の御茶暴き成る物が流行ったらしく、遊廓の娼婦達はカンカンに成って怒ったらしいのです。現代では、此れを逆にトルコ風呂の宣伝にして、娼婦を神への橋渡しの巫女としてでは無く、娼婦を商品として捉えて居る事は、スポーツ紙等を見れば解ります。日本では、生殖行為は、一種のスポーツみたいですね。

話を米国に移します。
ウエストハリウッドとハリウッドの間のサンセット大通り・ハリウッド大通りには大勢の街娼が立って居りました。中には物凄いインテリも居りまして、そんな人とお付き合いが有りました。彼女曰く、「殆どの街娼は、お金を貰って気を遣らさせたら終わり。街娼は完全に商品である」と言い切って居りました。エイズが流行って居りましたから、かなりリスクの高い商売なんですが、彼女、「買春と云う職業が最も女として誇り高い」・「男に気を遣らさせた瞬間の優越感は、女性として最高の悦びである」と曰って居りました。日米娼婦文化論を二人で闘わせたってトコロでしょう。

アナクロニズムのヴァイオリンに話を戻します。
ぷーた氏の演奏は、「気を遣る、若しくは気を遣る振りをする」トコロが無いのではと推察致します。此れでは、出来の悪い安街娼と同じでは有りませんか?次回から客が付きませんよ。尤も日本では、クラシック音楽の何たるか、解る人は極く少数なので、音楽上、「気を遣る、若しくは気を遣る振りをする」を行わ無くても観客は喜んでまた来て呉れるかも知れません。従軍慰安婦(三一書房に拠る)の歴史も有りますしね。終わったら、「クァンラー・完了」と云って次の人らしいのです。西洋伝統音楽に対して此れと同程度の精神性しか無い殆どの日本の観客は、は解らないのですから、啖呵の批評をして悦に入って居たとしても、節・音は、解らず、従って、音楽上の恥音もまず解ら無いでしょうね。でもね、そう云った観客蔑視の考え方でヴァイオリンを弾くのは、職業芸術家として恥ずべき行為だと思います。此れを「誠意」って云うんですか?お下劣な話題に戻しますと、「気を遣る、若しくは気を遣る振りをする」トコロが無いのは、宛ら、土耳古風呂では無く「リッチドール」ってトコロでしょうかね。最近は、前者を「阿波の国」後者を「健康倶楽部」・「抜き屋」と言習わすのだそうですね。

西洋伝統音楽は、「極楽へ行く」か、「神様が来る」のか良く知りませんが、兎に角、祭司の一部で有った事は確かです。演奏家は、祭を司る者として、観客を「極楽へ連れて行かれた様な気分にさせる」、若しくは、「神様が降りて来るかの様な幻想を抱かせる」のが勤めでは無いでしょうか?

最後に、演奏に置ける自制心は全く必要が無いと思いますが、然し、其れを客観的に見て居るもう一人の理性的な自分が必要だと思います。御回答に成ったでしょうか?

トコロで音楽上の品性って何なのですか?
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Re: pochiさんへ 「やっぱり止めて置こう」についての考察

投稿日時:2004年06月17日 00:54
投稿者:yam(ID:YUJwSVA)
親や先生などの言いつけを聞かない、口答えをする、我侭自分勝手な行動をする、規則を破る、自分が嫌いなことはせず自分が本当に好きなことだけをやる、これらは単に楽しいだけでなく、本質的に大変良いことであり、ヴァイオリン演奏に限らず、人生のあらゆる面において非常に大切なことです。近代精神の根本である自由主義、個人主義というのはまさしくこういうことなのです。自信をもって自分にしかできない演奏を追求しましょう。残念ながら、日本は未だに徳川時代と同じくらい封建的、前近代的な社会であり、ヴァイオリン演奏においても古臭い徒弟制度がはびこっていて、模倣や卑しいへつらい根性(「謙譲の美徳」とも言う)が幅を利かせていす。
自由の精神が良くないことだと思うような保守的、封建的な価値観を徹底的に打破しなければ真の芸術家にはなれません。岡本太郎「今日の芸術」を一読することをお薦めします。「自分の意思と責任をもってやるでたらめは、本当はでたらめではないのです。」「本当に自分の力だけで創造する、つまり、できあいのものに頼るのではなく、引き出してこなければならないものは、じつは、自分自身の精神そのものなのです。」
[13218]

Re: pochiさんへ 「やっぱり止めて置こう」についての考察

投稿日時:2004年06月17日 20:14
投稿者:pochi(ID:MmhxFSI)
[13206]
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Re: pochiさんへ 「やっぱり止めて置こう」についての考察

投稿日時:2004年06月17日 00:54
投稿者:yam(ID:YUJwSVA)
親や先生などの言いつけを聞かない、口答えをする、我侭自分勝手な行動をする、規則を破る、自分が嫌いなことはせず自分が本当に好きなことだけをやる、これらは単に楽しいだけでなく、本質的に大変良いことであり、ヴァイオリン演奏に限らず、人生のあらゆる面において非常に大切なことです。近代精神の根本である自由主義、個人主義というのはまさしくこういうことなのです。自信をもって自分にしかできない演奏を追求しましょう。残念ながら、日本は未だに徳川時代と同じくらい封建的、前近代的な社会であり、ヴァイオリン演奏においても古臭い徒弟制度がはびこっていて、模倣や卑しいへつらい根性(「謙譲の美徳」とも言う)が幅を利かせていす。
自由の精神が良くないことだと思うような保守的、封建的な価値観を徹底的に打破しなければ真の芸術家にはなれません。岡本太郎「今日の芸術」を一読することをお薦めします。「自分の意思と責任をもってやるでたらめは、本当はでたらめではないのです。」「本当に自分の力だけで創造する、つまり、できあいのものに頼るのではなく、引き出してこなければならないものは、じつは、自分自身の精神そのものなのです。」
には、同意しますが、悪文だと思います。
「本質的に大変良いことであり、ヴァイオリン演奏に限らず、」は、必要無いと思います。
加えて、「解り切った事を行わない」と云うのも、大切な事だと思います。

それでは、、、。
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Re: pochiさんへ 「やっぱり止めて置こう」についての考察

投稿日時:2004年06月19日 10:50
投稿者:Geiger1951(ID:QWGQIUA)
自由と芸術の関係はyamさんのお説の通りですが、現代日本は移動と職業選択の自由があるので徳川時代とはやっぱり全然違いますよ。
ところで、ふと考えてみたのですが、「深淵に臨み薄氷を踏む」人生を送った旧ソビエトの演奏家やバレリーナは素晴らしい活動をしたようにも思います。
極度の不自由が却って爆発的な芸術を生んだのはパロドキシカルです。活動を禁止され闇から闇に抹殺された人々も多かったことでしょう。
自由を求める闘いは求める自由がありすぎる現代では希薄かも知れません。
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Re: pochiさんへ 「やっぱり止めて置こう」についての考察

投稿日時:2004年06月19日 11:40
投稿者:pochi(ID:NwJ1cGM)
自制心という壁を打ち破る事は芸術家にとって不可欠な要素です。何故なら、何処迄が自制すべきか、誰にも解ら無いからです。現代社会に職業選択や移動の自由が有ろうと無かろうと関係有りません。自分の心の中に壁を作って居る事は、己の表現力に制限を付ける事ですから、「百害有って一利無し」と云い切って置きます。今、この瞬間に生きて居る事を表現して居る鶯の鳴き声が、鶯にとっては芸術なのです。其処に責任が必要なのでしょうか?

自分の出した音に責任を取るのは、録音が前提で有る場合です。自分の出す音に命を懸けるのが瞬間芸術である本来の音楽家の在り方だと思います。「録音に拠って音楽は堕落した」と師は申して居りました。
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Re: pochiさんへ 「やっぱり止めて置こう」についての考察

投稿日時:2004年06月19日 17:51
投稿者:ポチワンワン(ID:MUKZRQM)
こういう連中をマスターべーション野郎共というのだな
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Re: pochiさんへ 「やっぱり止めて置こう」についての考察

投稿日時:2004年06月19日 18:03
投稿者:pochi(ID:NwJ1cGM)
「マスターべーション野郎」に成らないために、「演奏に置ける自制心は全く必要が無いと思いますが、然し、其れを客観的に見て居るもう一人の理性的な自分が必要だ」と書き込んで居ります。日本語を読む能力を付けてから、書き込みましょうね。ポチワンワン氏が未だ4歳以下で有る事を念願します。5歳以上の知性が感じられません。尤も私の知性は3歳程度ですから、今後とも御指導御鞭撻の程、宜しくお願い申上げます。
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Re: pochiさんへ 「やっぱり止めて置こう」についての考察

投稿日時:2004年06月23日 19:55
投稿者:toru(ID:MIYTeSE)
演奏者と聴衆の相互性の問題かな
ぶーた氏の発想は、あまりに演奏者から聴衆への一方通行に見える。
ライブを一切止め、レコード作りに専念した
グールドのかんがえに近いのでは。
そうして作られた彼の録音はすごいですが。
pochi氏には、音楽の「場」への配慮が感じられます。

宗教の教えで、
神は人の上にあるのではない。
神は人と人の間にある。
というのを聞いたことがあります。
音楽も然り、
音楽を共有する者の間に「神が降り立つ」のでしょう。


>「神様が降りて来るかの様な幻想を抱かせる」
祝祭の場において、音楽の演奏者と聴衆の区別は判然としない。
そのような関係性を、現代のコンサートホールで実現可能でしょうか。
半年前にそんな話題がありました。

ところで、19歳のpochi嬢が生まれる遙か前、
虎、とか誘惑者とかいうバンドがあって
失神ブームがあったけど、神が降りてきたのか?

性行為を宗教行為の一部と見なす文化は
南方系には結構広く広がっているようです。
性行為=宗教行為=音楽 → 性行為=音楽 ?
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