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ハイフェッツって・・・ | ヴァイオリン掲示板

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雑談・その他 498 Comments
[40535]

ハイフェッツって・・・

投稿日時:2009年06月24日 08:50
投稿者:ともりん(ID:WJMwYg)
20世紀を代表するヴァイオリニストであることは、百も承知
二百も合点なのですが、では一体どういったところが素晴らしい
のでしょうか?
永いこと彼の録音を聴いてますが、私にはわからないのです。
オイストラフのスゴサは録音や映像から伝わってきます。

先日『ハイフェッツの真の凄さはヴァイオリニストにしかわからない』
という言葉を見つけました。彼のリサイタルを聴きに行った
ナタン・ミルシテインの言葉です。

長年の疑問が解決した思いでしたが、この言葉の真意を含めて
ご教授お願いします。。。
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【ご参考】
[41287]

Re: ハイフェッツって・・・

投稿日時:2009年09月27日 22:38
投稿者:カルボナーレ(ID:J0RRIjk)
>ヴィブラートの多用が速い弓の使用を難しくした
これは、まったく違います。誰がそのような事を言っているのでしょう。
「ヴィブラートの多用が、遅い弓の使用を可能とし、また強い弓圧も可能とした。」が正解です。
速い弓も当然使えますので、ヴァリエーションが増えて、演奏の幅が広がったということです。

>ヴィブラートの多用が速い弓の使用を難しくした
というのであれば、その理由を明確にしてください。そのようなことが書かれた文献が多数あれば、それをあげてもらっても結構です。

なぜ進歩、改善ということを考えないのでしょうか。
何か一つが加われば、必ず何か一つを捨てなければならないという妄想をお持ちなのでしょうか。
コレルリの頃から、その時代の名手、名教師が、長年にわたって少しずつ積み上げてきたものが、今日のヴァイオリンの奏法であり、それはこれからも進化していくものです。
[41288]

Re: ハイフェッツって・・・

投稿日時:2009年09月27日 22:57
投稿者:カルボナーレ(ID:J0RRIjk)
catgutさんの[41256]
[41256]

Re: ハイフェッツって・・・

投稿日時:2009年09月26日 00:05
投稿者:catgut(ID:QhNBB4k)
匿名希望Aさま、ぜひ”Surface Sound"についての解説を読み直してみてください。弓の速度が速すぎると、弓毛と弦の接触が特殊になり、音が大きくなるのではなく音色が変わってしまいます。極端な場合1オクターブ高い音になります。あえて例えるなら、エンジンを回しすぎて異常振動しかえって出力が落ちているようなものです。


新顔の通りすがりさま、どうも私がはぐらかされているような気がしてならないのですが。

20世紀後半のヴァイオリニストは平均的に音程感覚が悪いのでヴィブラートを音の下にかけると思っていた、という説明で良いのでしょうか。単にガラミアンの指導がこの点についておかしかったと言えば良いのではないでしょうか。もちろんある観点では当時のオーケストラ奏者より現代のオーケストラ奏者のほうが平均的に優秀とは思いますが、19世紀末にはまだブルックナー(1896年没)やブラームス(1897年没)が生きていたわけで、少なくともロマン派の解釈なら20世紀初頭の奏者のほうが現在の奏者より上だったかもしれません。そしてその時代に現在でも称えられる多くの名ヴァイオリニストも登場しているわけです。

ヴィブラートは明らかにガラミアンの間違いですが、ガラミアンが弓に圧力を多用する奏法を推奨したこと自体は究極的には好みの問題であり、正しいとか間違いという問題ではありません。ただ、それが20世紀前半(つまりアウアーとフレッシュの指導の影響力が強い時期)の主流の演奏様式とは違うという点はヴァイオリンを演奏する人なら知っていなければならないでしょう。


念押しですが、マーテンスの「弦楽技法」に、アウアーの弟子として知られるフランシス・マクミランへのインタビューが掲載されています。マクミランは以下のように語っています。

-----
過去の大バイオリニストの多くはffを奏する時に、弓を駒の所に置く代りに、指板の近くにおいて奏きました(中略)。弓の圧力によってバイオリンの音を無理に出すことは、求めんとする効果を常に台なしにするものであります。
-----

すでに引用した通り、アウアー自身も以下のように書いています。
(ヴァイオリン奏法 Violin Playing as I teach it)

-----
弓は軽く持つ。しかし、楽に動かすことができる程度にしっかりと持つ。
特に弓を弦に押しつけて大きな音を出そうとしてはいけない。これこそ技巧
というもので、努力と経験によってのみのばすことができる。
-----
でのご発言、
>19世紀末にはまだブルックナー(1896年没)やブラームス(1897年没)が生きていたわけで、少なくともロマン派の解釈なら20世紀初頭の奏者のほうが現在の奏者より上だったかもしれません。

に対し、[41258]
[41258]

Re: ハイフェッツって・・・

投稿日時:2009年09月26日 04:08
投稿者:カルボナーレ(ID:J0RRIjk)
catgutさん

1.”Surface Sound"
これはcatgutさんが作られた別のスレッドで、これが”どのようなものか”をはっきりさせてから語るようにしてください。今の段階では「うわさで聞いたが何かすごい音があるらしい」の域を出ていません。
演奏において”Surface Sound"がどのような音をさすのか言えない方にこの言葉を出されても、まったく説得力がありません。
なお、最初に「これだ!」と引用されたYouTubeのハイフェッツ映像は。変換が誤っているか意図的に早くしたのか、およそ半音分早くなっており、音に人工的な変調がかかっているだけのものでしたので、それを最初に聴いた時の強い印象からの固定観念から抜けられないのではないですか。

2.弓圧とビブラート
弾き始めにビブラートをかけるようになることで、ヴァイオリンの音色の概念はまったく変わったと私は認識しています。奏法もそれにより進化しました。
ビブラートをかけない演奏を自分で行ってみればすぐわかりますが、圧力をかけると容易に音がつぶれます。音の立ち上がりも、持続部分も、です。
演奏をする者であれば当然のようにわかっているでしょうが、ビブラートをかけることで圧力方向の許容度は格段に増します。
特に、音を発音させる弾き始めの瞬間にビブラートをかけると、かなりの圧力であってもつぶれた音ではなく、輝かしい音として認識されます。
従って、1910年頃以前の奏法と、1930年頃以降の奏法は大きく変わって然るべきであり、1920年頃はその過渡期で新旧のそれぞれの立場の発言がある時期でしょう。1940年頃にはビブラートが定着してきていますので、1世代前は使うのがはばかられた圧力も、当然の奏法として積極的に使えるようになりました。これはヴァイオリン奏法における、ブレークスルーというのか、明確な技術革新と言えるものだと思います。
残っている映像を見る限り、ハイフェッツはいち早くそのような奏法を取り入れ、米国で成功したのだと思います。

3.音楽表現
言葉尻をとらえて空想の世界で遊ぶだけでなく、実際の音を聴きましょう。1910年くらいから後の演奏であれば、探せばいろいろな音源が残っています。
私は、新顔の通りすがりさんが当時の音源から感じたことに同意します。
反論するのでしたら、これぞロマン派の極地という演奏をしているオケの音源を具体的にお示しください。
今では演奏家の常識となっている音楽表現上のマナーが理解できていれば、容易にわかることですが、これは受けてきた音楽教育や音楽経験、また音楽環境により養われるもので一部の人の中では常識であっても、まったく理解できない人には何のことかすらわからないという類のものです。

>3.音楽表現
>言葉尻をとらえて空想の世界で遊ぶだけでなく、実際の音を聴きましょう
と書かせていただきました。ポイントは”ロマン派の解釈”が実際の演奏でどうであるかの一点です。
録音の音質の善し悪しや音量の大小に関係なく、録音を聞けば、音楽的な解釈はすぐにわかります。

従って、
>この方式では、ある程度の音質で記録可能な音源は独唱曲か小編成の器楽曲程度で、オーケストラの記録はかなり貧弱な音質にしかならなかった。

という回答は、まったく的外れなものです。

catgutさんは、新顔の通りすがりさんが、
[41285]
[41285]

Re: 20世紀前半の奏法と現在の奏法の違いについて

投稿日時:2009年09月27日 19:07
投稿者:新顔の通りすがり(ID:OEiEF5A)
41283は脱落があったので削除して訂正版を書きます。
----
アウアーとフレッシュをくくったのが無理。両者は違いすぎる。
ハンガリーのフバイ門下はどうするの?ティヴォール・ヴァルガ先生やシャーンドル・ヴェーグ先生はフバイ門下ですよ。孫弟子は凄い数でしょ。
フランコ・ベルギーはどうするの?膨大な数の名手が出ていますよ。
ドイツ人はドイツ派ですか。ちがうでしょ。Jボリス、Aブッシュはドイツの代表の顔してますが、ボリスはフバイ系列、ブッシュはフバイとシュポーアの両系列…。キリが無いですよ。ちなみに私はいろんな先生に習いました。さかのぼれば上記の全部の系列に入っているでしょ。でもアマチュアですよ。以前お教えしましたよね。
あ、ひとつ忘れちゃいけないのが旧ソ連派(モスクワとレニングラードとその他の都市、ノヴォシビルスクなんかも含む)、これ凄い重要性の割に、鉄のカーテンと冷戦のため注目度が低い。

難しい研究かと思いますから、ご自分のサイトで自由におやりください。私は興味がありません。できるとも思いません。
我々は『線』や『面』でものを捉えることの危険性を知るべきです。解るのは個々の『点』だけです。『点』である個々の奏者で音源などが存在するものは考察の対象になります。音源に據ればこんな演奏だった、というレポは意味があり貴重でしょう。
用語の問題:
奏法、と、演奏様式は別個の問題です。今や演奏様式の方が重要ですね。弓の使い方なんて手段ですから。ねらった音楽が出てくるなら逆立ちして弾いたって立派な演奏家であり、彼がどういう音楽をやりたいかが「演奏様式」です。言葉をわざとあいまいにして逃げ路をつくっているのですかね。
の最後で書かれた、
>奏法、と、演奏様式は別個の問題です。
という意味は、理解できますか?
もっと直接的な質問に置き換えると、フレージンング、アーティキュレーション、ディナーミクとは、何かわかりますか? 
[41290]

Re: ハイフェッツって・・・

投稿日時:2009年09月27日 23:42
投稿者:catgut(ID:EUiWmHM)
カルボナーレさま、
いわゆるロマン派の演奏では楽譜の指示をソリストが理解していても従わない(独自の解釈を突き通す)場合が多いという認識は合っていますよね?どうもこの点からカルボナーレさま、新顔の通りすがりさまと認識がずれているような気がしてならないのですが。

楽譜に忠実をポリシーとする新即物主義の演奏が台頭してきたのは一般的に言って1920年代頃だと思いますので、これはこれでボーイングとは分けて論じる必要があります。
[41310]

Re: ハイフェッツって・・・

投稿日時:2009年09月28日 14:42
投稿者:新顔の通りすがり(ID:FUUXInk)
catgut氏は、新即物主義対ロマン主義の「見解の相違」という落とし所に強引に持っていこうとお考えのご様子。

残念だが、あまりうまく行かないだろう。
"Casals and the art of interpretation"
Chapter 4 P69-70
上記をcatgut氏は読んだでしょう。「新即物主義」はキーが滑ったのかな。

カザルスは上記の冒頭で何を言っているのでしょう。

カザルスは新即物主義なんかとは全く無関係。むしろ演奏家が「書いてある通り弾く」としたら非難した筈なのです。ロストロポーヴィチは「カザルスの表現とフルニエの気品を兼備したいと願った」とか言っていませんでしたか?うろ覚えですが確かそう聞きましたよ。カザルスのシューマンのコンチェルト。あれを聴いてどこがどう「新即物主義」なのですか。

catgut氏と私の>>>>「認識がずれている」41290
なんかじゃなくて、>>>>「楽譜に忠実をポリシー」というときの楽譜の読み方の違いらしい。楽譜に書いてある情報から何を読み取れるかがでしょう。カザルスが強く訴え続けたのはそうした「読み」の能力向上です。
インタープリテーションとはそうしたものです。

あ、そうか、ここはハイフェッツのボーイングしか論じちゃいけない場所でしたか。
[41313]

catgut氏に献呈する

投稿日時:2009年09月28日 20:38
投稿者:新顔の通りすがり(ID:OEiEF5A)
catgut氏にささげる音楽教養講座
長くてごめんなさいね。みなさん無視しても結構ですよ。
========
譜面を読む読み方について、優れた音楽家は様々に発言します。私は演奏家たちのマスタークラスや公開レッスンにしばしば陪席しました。
『楽譜というのは紙の上の黒いシミじゃない』、『作曲家が何故ここに休止符を置く選択をしたのか考えたのか!』、『君がここで弾いた非音楽的で不必要なポルタメントは何だ!』
楽譜をきちんと読みこなす教育は主義主張なんかとは無関係に重要です。演奏技巧は楽譜を読むことと独立に存在し得ません。技術と解釈は車の両輪、あるいは表裏一体のものです。これぞ真の演奏技術です。それでなくてはクラシック音楽になりません。

『カザルスと解釈の芸術』を私は英語で読んだので申し訳ないが英文で行きます。悪しからず。
"Casals and the art of interpretation" David Blume著
Chapter IV : Perceiving time relationships の冒頭を引用します。
---------
(Casals) said, 'The art of interpretation is not to play what is written.'
In these words Casals was stating a fundamental tenet of his music making.

Since earliest times, song and dance have arisen freely and spontaneously; conveying messages of the human spirit which cannot otherwise be expressed. When, over the course of history, it was deemed useful to find ways of notating melody and rhythm, such markings were never meant to be representative of music itself in all its natural life, vigour and subtlety. Indeed, there is an old adage, not without truth: 'When music is written down, it dies.'
The printed score is like a landscape painted on a cardboard façade; houses, trees, and hills stand stiffly side-by-side. These lifeless images are no more than symbols of a deeper artistic reality; they invite the interpreter to discover the world of experience of which they are the mere semblance. When the re-creative spirit of the performer leads us through one of the painted doors, we suddenly find ourselves entering a three-dimensional realm. The forms take on depth. We perceive the movement of light and shadow. The air may be fresh with spring moisture or still, as in the last days of autumn.
----
以下は私による訳です。間違いがあれば全て私の責任です。
----
  (カザルス)曰く: “解釈の芸術とは、書かれているものを弾くことではない。”
 これらの言葉において、カザルスは自らの音楽造りにおける基本的な信条を開陳していたのだ。

最も古い時代以来、歌と踊りは自由に自発的に、他の方法では表現され得ない人間の魂のメッセージを伝達するためのものとして発生して来た。歴史の流れを経て、旋律とリズムを記譜する道を見出すことが有益だと思われたときでも、こうした印しは、すべての生まれながらの生命や活力や繊細さの中にある音楽それ自体の代理物であると意図されてはいなかった。
 むべなるかな、『音楽が書き下ろされたときには、それは死ぬ』という、真実を含まぬでもない金言のあることよ。
 印刷されたスコアというものは、薄っぺらなボール紙のファサードに描かれた風景の如きものだ。家々、木々、丘の数々がしゃちこばって横一列に並んでいる。これら生命のない画像たちは、より深いところにある芸術的リアリティの象徴でしかない。それらは、じぶんたちが単なる似姿として表わしているに過ぎない経験の世界を見出せと、解釈者を招いている。
 解釈者の再創造的精神がわたくしどもを、絵の描かれたドアのうちのひとつを通って導いてくれるときには、わたくしどもは突如として、3次元の領域に入りつつある自らに気付く。物々の形は厚みを呈する。わたくしどもは光と影の運動を知覚する。大気は春のしめりけを帯びて新鮮かも知れぬし、秋の終わらんとする日々におけるが如く静寂であるかも知れぬ。
[41315]

Re: ハイフェッツって・・・

投稿日時:2009年09月28日 22:53
投稿者:catgut(ID:EUiWmHM)
新顔の通りすがりさま、

私は言語が音程感覚に影響するかという議論で、カザルスのexpressive
intonationを紹介しました。これは状況によって楽譜に書かれている同
じ音ですら音高がダイナミックに変わるという考え方ですね。カザルス
が、我々が狭い意味で思い込みがちな「楽譜通り」の演奏が必ずしも良
いわけではないと考えていたのは明らかです。その点は同じ認識です。

ただ20世紀前半のヴァイオリニストが楽譜上の指示を守っていなかったとしても、それは意図的に無視していたかもしれない(技量が低いからとは限らない)ということを指摘したまでです。
[41316]

Re: ハイフェッツって・・・

投稿日時:2009年09月28日 23:16
投稿者:新顔の通りすがり(ID:OEiEF5A)
>>>>20世紀前半のヴァイオリニストが楽譜上の指示を守っていなかったとしても、それは意図的に無視していたかもしれない(技量が低いからとは限らない)ということを指摘したまでです。
----
具体的に、どんな人がどの音源で『意図的に無視して』いるのですか。

私が指摘したのは、具体的に1920年代のオーケストラでしたよ。不足ならもっと羅列しましょうか。16分音符が弾けていない。ぎゃっという汚い音が聞こえる。音楽的に意味のないポルタメント(意識してどころか、無自覚に絶え間なくひきずる)でもたしかに一種の時代性がある、という類です。
カペ四重奏団の例も指摘しましたよ。私のように耐性のない若い人なんか『キモい』と片付けるでしょうよ。
あの音源聴きましたか。聴かずに否定するのですか?
>>>>かもしれない(技量が低いからとは限らない)ということを指摘
はもうよろしい、音源はどこですか?
[41317]

Re: ハイフェッツって・・・

投稿日時:2009年09月28日 23:30
投稿者:新顔の通りすがり(ID:OEiEF5A)
>>>狭い意味で思い込みがちな「楽譜通り」の演奏
は表情的音程とイコールなのですか。
これでは『同じ認識』のわけがない。

演奏解釈の理論を述べた本というのは、日ごろ演奏実践の上で試みている自分の方向性がないと理解しにくいものです。
『そー、そー、その通り、ガッテンガッテン!!』
大家が励ましてくれるのは非常に心強い体験です。
表情的音程にこだわっていらっしゃいますが、カザルスの専売特許じゃありません。多くの弦奏者には常識です。言語との関係じゃなく音楽的教養に属するものです。
カザルスの素晴らしいのはスフォルツァンドとディミヌエンドの巧みな駆使、ビートを大きく保ちながら音符を伸びちぢみする速度法、弓を投げつける爆発的なアタックなど、一見冒険的と見えるやり方が、聴いてみると実に作曲者の意図にかなっていることです。ほんとに素晴らしい教えです。
[41332]

Re: ハイフェッツって・・・

投稿日時:2009年09月29日 23:07
投稿者:catgut(ID:EUiWmHM)
新顔の通りすがりさま、

-----
表情的音程にこだわっていらっしゃいますが、カザルスの専売特許じゃありません。多くの弦奏者には常識です。
-----

という点を強調して頂いてありがとうございます。いまだに旋律的音律は
ピタゴラスで良いという考えが一部にあるようですので、この点は強調し
てし過ぎることはありません。

私は人間の「歌」の音程は当然ながら平均律のように単純な法則で動く
のではなく、複雑なカーブを描き、またある程度は言語のイントネーション
も影響すると考えています。弦奏者に歌手を模倣する意識があれば、
表情的音程になるのは当然と思います。
[41338]

Re: ハイフェッツって・・・

投稿日時:2009年09月29日 23:39
投稿者:新顔の通りすがり(ID:OEiEF5A)
>>>>>私は人間の「歌」の音程は当然ながら平均律のように単純な法則で動くのではなく、
----
あなたにご指摘いただくには及びません。平均律で歌うことは不可能です。世界中のどの民俗歌謡も平均律ではないでしょう。解りきったことを云うのは野暮なことです。


>>>>またある程度は言語のイントネーションも影響すると考えています。
----
仮説でしょう。


>>>>いまだに旋律的音律はピタゴラスで良いという考えが一部にあるようです…
----
ピュタゴラス音程という言い方の中には表情的音程の意味で言っているケースがままありましょう。
私の受けた教育は、4度音程をきちんと取れ、つまり1の指と4の指をきちんと取れ。3の指を4にうんと近づけると長3度。3を2の指に近づけると短3度。というものでした。こうすると素敵な表情が出ます。
現場の教育は響きの色合いを重視しますから、評論家的に理屈で決め付けるのは事実とかけ離れた話になります。だいたい数学的に正確なピュタゴラスで弾かせようとしても誰も実現できないでしょう。
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