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音程感覚には母語の影響が出るのか? | ヴァイオリン掲示板

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雑談・その他 275 Comments
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音程感覚には母語の影響が出るのか?

投稿日時:2009年03月28日 16:04
投稿者:pochi(ID:OVMFIBc)
ttp://www.fstrings.com/board/index.asp?id=39390
関連です。

音程感覚に母語の影響は、有る様な無い様な、感じです。こんなのの「分析」にはtartiniは有効な道具の一つになるでしょう。
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Re: 音程感覚には母語の影響が出るのか?

投稿日時:2009年05月09日 20:18
投稿者:catgut(ID:EGUjc5U)
アリストクセノスのピタゴラス音律批判があまりに面白いので、関連書をいくつか斜め読みしてみました。アリストクセノスはアリストテレスに師事した哲学者で、音律を明らかにすることは人間の本質を明らかにするとまで考えていたようです。

アリストクセノスに関しては、アリストクセノス『ハルモニア原論』の研究 山本建郎 著 という非常に充実した本があります。本書の「ハルモニア原論」の翻訳部分が「古代音楽論集―アリストクセノス/プトレマイオス」 に再録されています。ここでのハルモニアは、あえて訳せば「音階」になるそうです。

音階の発生よりみた音楽起源論 黒沢隆朝著
という本は、言語と音楽の深い関係を認めながら、楽器の発明によってその倍音の魅力で音階が出来たのであろうという主張ですが、この中でピュタゴラス音律はギリシャ時代には散々使いものにならない馬鹿げた音律であると攻撃されていたという話が出てきます。

音律について上巻 -バッハとその時代ー ヘルベルト・ケレタート著 竹内ふみ子訳 には、「ピュタゴラス音律に賛成する人と反対する人」という項があります。ここでは詳細にピタゴラス音律に関する賛否両論の議論を紹介しています。ピタゴラス音律に否定的なものには以下のようなものがあります。

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キルンベルガーは自分の音律に真のエンハーモニック(微分)音程がないことを歎いている。もしエンハーモニック音程があれば、彼の音律は歌唱教育に重要なものになったであろう。

ピュタゴラス音律派、特にシュタイナーに反対したのは、ヘルムホルツと並び、まずマックス・プランクである。彼によれば「例えばベルリンの合唱団は専ら調整した音律で歌い、ピュタゴラス音律を使用している形跡は全く見られない。一様に平均律にしがみついていれば、無論、音楽表現にめりはりがなくなってしまう」

トアヴァルト・コルネルプは、ピュタゴラス音律を全く使用不可として拒否し、「ピュタゴラスの混沌」と呼んだ(1930年刊行の本に記載)
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西欧のアカデミックな世界でもピタゴラス音律について比較的最近まで賛否両論が繰り広げられて来たというのは興味深いことです。
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Re: 音程感覚には母語の影響が出るのか?

投稿日時:2009年05月21日 23:26
投稿者:catgut(ID:QGgShxI)
日本人の音感を考えるために、洋楽が入る明治より前の日本の音楽について少し調べてみましたが、大変面白いですね。

のちほど紹介しますが、能の音楽がお経のように「つまらなく」なったのは江戸末期から明治にかけてで、それ以前はずっとテンポもよく、メロディアスだったそうです。能楽が武士の芸になってしまったために、テンポが極めて遅くなり、メロディも単調になってしまったようです。

まず凄いのは平安時代末期の梁塵秘抄です。
著者の後白河天皇(平安時代末期)は今で言えばロック少年がそのまま大きくなったような人で、政治より当時の流行歌(今様)が死ぬほど好きだったそうです。こちらのサイトに管理人の方が秀逸な口語訳を掲載されていますので一部紹介します。

梁塵秘抄口伝集巻第十一(その一)
ttp://homepage3.nifty.com/false/garden/kuden/kuden11-1.html

人が歌うこと、楽器を奏でることについて、後世のために書き残しておこう。
郢曲とは、もろもろの詩歌を声高く歌うことの総称である。基本的な音感としては、強すぎないようにして、声をかすれさせず、高低を正しく歌う。六調子のうち、双調を主音にして歌うときは、催馬楽の様子の声の出し方に似ているが、郢曲の場合はもっと強い。たんにゆるゆると穏やかで、節回しも円満で、旋律に従って篳篥の音が聞こえないほど一体化していたり、横笛や笙も目立たないくらいにぴったりと合わせて、みごとらしく長々と声を使い、譜面の組立がありありと聞いてわかるようではいけない。ただ一息に、歌声に頼るのではなく、さらさらっと普通にものを言うように歌うのがよい。

高音を出すときは、身体をやわらかくして、首を傾けず、気持ちよさそうな顔つきにしておいて、声をもう一段よけいに上げたりすると、聴かせる歌い手だ、レッスンを積んできた人だ、とアピールしやすい。切れ切れに息を残して、最初から思いっきり声を出そうとしてはいけない。息を引くときは腰元まで吸い込み、腰は岩のようにしっかり据えて、上半身はひたすら青柳のごとくやわらかに、頬はふだんよりやわらかくして、頭から背中をずらさず、襟首を動かさずに、歌数をたくさん歌っても、姿勢を崩さないように歌うこと。

詩文の朗詠でも神楽でも今様でも、また、催馬楽、足柄、片下、田歌でも、何でもかんでも歌い方は同じだとか、未熟なうちはみんな同じように歌え、などという人も多いが、おかしなことだと思う。楽譜も音の出し方も、みんなそれぞれジャンルによって旋律のゆらぎが違うものだ。どれもみな、譜面を見ればそこに盛り込まれたそれぞれの芸風がわかる。

昔の人が和歌にも残しているように、習練の足りない者ほど、何もかも同じように歌ってしまうものだ。一首一首に心をくばって歌うときは、歌それぞれの風というものがおのずと出てくる。
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Re: 音程感覚には母語の影響が出るのか?

投稿日時:2009年05月21日 23:42
投稿者:catgut(ID:QGgShxI)
2002年に能の「卒塔婆小町」を桃山時代に演じられた形に復元して上演したそうです。

早稲田大学 竹本幹夫教授へのインタビュー
ttp://benesse.jp/berd/center/open/kou/view21/2008/10/06ken_02.html
ttp://benesse.jp/berd/center/open/kou/view21/2008/10/06ken_03.html

現在の『卒都婆小町』の上演時間は約90分です。ところが、秀吉時代の版で演出してみると、約50分で終わることがわかりました。当時の拍律で謡うと、自然とテンポが速くなるのです。世阿弥時代(室町時代)の謡は、笛の演奏に合わせて謡っていたという記録が残っています。今は、笛と謡が音を合わせたりすることはありません。今回はその中間をねらいました。
そうして復元してみると、秀吉時代と現代の能とでは、受ける印象が随分違いました。秀吉時代の能は軽くてスピード感があり、謡はメロディックです。観賞後の客の中には節回しを覚えて鼻歌交じりに帰る人もいました。こうしたことは、現代の能鑑賞ではまずあり得ないことです。
私は先ほど、「能は集中の芸能である」という話をしましたが、能のルーツをたどっていくと、むしろ当初は「解放の芸能」だったことがわかったのです。能が庶民から支持を得られたのも、観客がわっと沸いて心を解放できる娯楽性の高いものだったからなのでしょう。
 では、能はいつから「解放の芸能」から「集中の芸能」へと転換したのでしょうか。おそらく江戸時代に入り、能が武家社会で「式楽(しきがく)」として取り入れられてからだと考えられます。当時の史料には、幕府が能役者に対して「おまえの芸はなっていない」といった通達を頻繁に出していたという記録が残っています。こうして娯楽性が徐々に削ぎ落とされ、より緊張感の高い芸へと変わっていったのでしょう。
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Re: 音程感覚には母語の影響が出るのか?

投稿日時:2009年05月22日 10:52
投稿者:Xin(ID:EZKRRpQ)
謡(うたい)やお経を聴くと話が主体のようであり、また節回しも在るようでもあります。結局両方ともよくわからんのです。
でもこれが日本人の音程感覚かなともおもいます。

子供のころ祖父の謡(うたい)の練習を毎日きかされました。
謡(うたい)の本を覗き見しましたがわからんでした。
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Re: 音程感覚には母語の影響が出るのか?

投稿日時:2009年05月23日 01:17
投稿者:catgut(ID:QGgShxI)
世阿弥の音楽論については以下の論文で解説されています。
強引に要約すると、世阿弥は言葉を非常に重んじて能のメロディーを作った(当時は現在より多くの音階を使用していた)が、言葉から外れるメロディーにも一定の評価はしていたということのようです。

世阿弥の能楽論における「無」の源泉 : 音曲論の果たした役割をめぐって
玉村 恭(全文が読めます)
ttp://ci.nii.ac.jp/naid/110006383267

「本を書く人」即ち台本作者には「文字移り」つまり続き柄の美しい言葉を選ぶことを、「謡ふ人」即ち実演者にはそれにふさわしいメロディーを施すことを要求している。同書の別の箇所で世阿弥は「一切の文字は、声が違えば訛る也。」とも述べ、言葉の「声」(アクセント)が正しく発音されないことによって「訛り」が生じることを警戒している。つまりここでの「ふさわしいメロディー」とは、言葉の発音を正確に伝えるようなものを意味する。(p70より)

後白河天皇や世阿弥が意識的に言葉と旋律を関連付けていたというのは興味深いことです。このような日本の音楽は、桃山時代の宣教師や幕末に日本に来た西洋人はまったく理解できず、また日本人も西洋音楽を全く理解できなかったそうです。
[40279]

Re: 音程感覚には母語の影響が出るのか?

投稿日時:2009年05月28日 00:10
投稿者:catgut(ID:QGgShxI)
アウフタクトがドイツ語などの冠詞にあたるという説は良く知られていますが、言語と音楽の相似について、以前から私は装飾音は言葉の揺れと関係があるのではないかと考えていました。(本物の)タルティーニもこれと似たことを考えていたということを最近知りました。国立音大が発行している小冊子に以下の記事がありましたので一部紹介します。

G.タルティーニの音楽観 米村律子
ttp://www.lib.kunitachi.ac.jp/pub/parlando/2007/Parlando254-3.pdf

-------
タルティーニは古い時代から歌い継がれている一般の人々の音楽(例えば、ヴェニスのゴンドラの船頭の歌・・・)を観察し、特別な音楽教育を受けたことのない人々が自然に旋律に付けて歌う装飾表現を収集しています。
(中略)

(1)人々の感情を喚起する「良い趣味」の音楽は、古代ギリシャの朗唱的な、単声部による声楽曲で、自然に従っている曲である。
(2)現代(タルティーニの時代)で良い趣味の音楽を実現したいならば、自然を模倣する方法しかない。
(3)自然を模倣するために、一般の人々に歌い継がれているイタリアの古い音楽を観察し、収集することが必要である。
(4)生まれつきの自然が備わっていない時、あるいは、声楽曲ではなく器楽曲である場合、適切な装飾を適切な場所に適用することで不足している自然を補うことができる。

(中略)
そして以上のことを総合すると、「タルティーニにとって、装飾は自然を模倣する手段である」という考えに至りました。

(中略)
また、興味深いことは、L.モーツァルトがタルティーニのこの「ヴァイオリン奏法」から数多く譜例も解説も引用していることです。実際に両者の指導書を突き合わせてみると、殆ど同じ譜例とコメントが幾つも見つかります。
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Re: 音程感覚には母語の影響が出るのか?

投稿日時:2009年05月28日 00:54
投稿者:結局この掲示板って、(ID:JhkUMIg)
内容がどうであれ、しつこく書き続けたもん勝ちなんだね。
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Re: 音程感覚には母語の影響が出るのか?

投稿日時:2009年05月28日 07:42
投稿者:catgut(ID:QGgShxI)
結局この掲示板って、さま、

「ドレミを選んだ日本人」千葉優子著 音楽之友社刊を一読することをお勧めします。かつて日本人がいかに西洋音階を理解できなかったか具体的に指摘しています。

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エリザベス・トレイというアメリカ人音楽教師は日本人に賛美歌を教えるのに非常に苦労したといい、次のように語っている。
「音階の二つの音はほとんど教えられません。シとファです。ファなどはまったく正確に歌えません」
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すでに引用しましたが、日本の音響学の権威である颯田琴次の世代ではまだこのことは自覚的だったのに、中途半端に無自覚になってしまっているように思えます。

ttp://ci.nii.ac.jp/naid/110003135919 (有料)
日本人の音感覚 日本音響学会誌 1954年

最近、女流黒人歌手マリアン・アンダーソンが来たとき、どおも調子が下がるというので、わるく言われたようだったが、これは此ひとの音階が、ヨーロッパのとちがい、全音も半音も、心もち狭いというところに原因があったものとも見られるのだ。その証拠には・・・というと少し強くひびきすぎるかもしれないが、黒人霊歌をうたう時、誰れも余り調子を気にする人はなかったようである。ドイツのものや、アメリカの歌となると、何となく気になるのは、われわれの先入観と少し違った持味が、ある抵抗感をおこさせる原因となったものではなかろうか。こう考えると、民族には、五声音階とか、七声音階とか、そういう荒っぽい区別以外、もっと微妙な相違があると見なければならないものであろう。日本人がどんなにうまく西洋の歌をうたっても、ほんとに好い気持になると、どうも三度が心持せまくなるという、多くの外人の批評がある。これなぞも他山の石、われわれの真の音階を知るうえに、誠に含みのおおい見解と見てもよい。
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Re: 音程感覚には母語の影響が出るのか?

投稿日時:2009年05月28日 21:45
投稿者:通りすがり(ID:FINJlSk)
このスレタイ、なぜ「母語」なのか。「文化」ではないのか?
「母語」は文化の要素でも有り、互いに影響しあっている。
「母語」だけ取り出して議論することは不能、無意味。
敢えて「母語」とする理由が分からない。

「正しい」音程は教育の結果か、自然発生か?

>かつて日本人がいかに西洋音階を理解できなかったか
そういう教育を受けていなかったら、当たり前。
むしろ、かつて西洋人(および西洋被れした日本人)が如何に日本を貶めていたかということ。

1オクターブの広さに、文化の差異はあるのか、個人的なものか?

「母語」は関係ないでしょう。訂正を求めます。
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Re: 音程感覚には母語の影響が出るのか?

投稿日時:2009年05月29日 00:16
投稿者:Xin(ID:EZKRRpQ)
昨日TVで南米の黒人音楽SAYAを取り上げていました
普通の、おじさんおばさん達が大勢で太鼓を叩いて歌いながら踊っていました
この人たちは、金山の奴隷労働者としてアフリカからつれてこられた
人達の子孫です
言葉はスペイン語ですが、アフリカからの自分たちの音楽文化を受け継いでいます

日本人が西洋の音楽を受け入れたのとは対照的な現象でしょうか。
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