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夭逝の天才ヴァイオリニスト | 演奏家ライブラリ

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夭逝の天才ヴァイオリニスト

映画界ではジェームス・ディーン、ロック音楽界ではジミ・ヘンドリクスなど、どの分野にも夭逝の天才達がいる。ヴァイオリン界でも、その将来を嘱望されながら悲劇的な最期を遂げたヴァイオリニスト達がいる。今回は私が個人的に是非とも皆様の記憶に留めて頂きたい3人をご紹介する。

非業の最期を遂げた天才女流ヴァイオリニスト

ジネット・ヌヴー / Ginette Neveuジネット・ヌヴー
(Wikipediaより引用)

ジネット・ヌヴーは伝説的な女流ヴァイオリニストの一人だ。10代に満たない頃から既に公開演奏会を行い、名だたる名教師たちも彼女の才能には驚き、そして目を細めた。彼女が7歳の時、ジョルジェ・エネスクのレッスンでこんなやりとりがあった。彼女の弾くバッハを引き止め、「そのパッセージ、私はそう弾かないよ」。するとヌヴーは「私は自分の理解した通りに弾くの」。エネスクはにっこり笑って続けさせた。またカール・フレッシュは彼女に「君は天からの授かりものを持っている。私にできるのは純粋に技術的な助言だけだ」と言った。

ヌヴーは16歳でヴィエニャフスキ国際ヴァイオリン・コンクールに出場し、27歳のダヴィッド・オイストラフ(後の大巨匠である)を第2位に退けて優勝した。1939年に戦争が勃発するまでには既にヨーロッパ全土で熱狂的な支持を受けていた。ヌヴーは流派にとらわれない、非常に自由なスタイルを持つ奏者だった。あるときは弓をハイフェッツのように持ち、またあるときはティボーのように持った。観客はびっくりしたが、彼女にしてみれば必要な時に必要な持ち方をする、それだけのことだった。

戦後、再び活発な演奏活動を行うようになったが、1949年10月28日、アメリカに向かう飛行機が墜落し愛器ストラディヴァリとともに海に散った。成功の絶頂の中、30歳というあまりに早すぎる死だった。

技術的な瑕疵のない生まれついてのヴァイオリニスト

マイケル・レビン / Michael Rabinマイケル・レビン
(EMIのジャケットより引用)

アメリカは20世紀半ば、驚異的な才能を持つ一人のヴァイオリニストを生んだ。マイケル・レビン。彼ほど完璧にツィゴイネルワイゼンを演奏する奏者が他にいるだろうか。フレージングに一切の無駄がなく、完全なイントネーションに加え、ひと弓でのスタッカート、左手のピッチカートの音の粒と音量まで完全にコントロールされている。

20世紀の最も偉大な教師の一人、アイヴァン・ガラミアンはこう言っている。「私が今まで教えた生徒の中で一番才能があったのはマイケル・レビンだ。欠点がなかった。全くなかった」。

彼が録音を行っていたのは14歳から24歳までの10年間だが、この間に2回のパガニーニの協奏曲の録音を含め、主要な協奏曲と数多くの小品を録音している。そして特に凄みを発揮するのは20歳を超えた頃からである。彼はカプリースやチゴイネルワイゼンを2度録音しているが、技術的完成度、音色の美しさには確かに共通点があるものの、2度目の録音では何かに取り憑かれたかのように素晴らしい演奏である。その後徐々に演奏活動から遠のき、1972年に不可解な死を遂げる。36歳の若さだった。

不幸な偶然と時代の波に飲み込まれた日本の天才少年

渡辺茂夫 / Shigeo Watanabe渡辺茂夫
(EMIのジャケットより引用)

最後は我が国日本が生んだ、演奏活動を続けていれば間違いなく世界のトップレベルになったであろう渡辺茂夫をご紹介したい。

彼は10代に満たない頃すでに国内では神童として名が通っていた。その評価が決定的になったのは、来日したヤッシャ・ハイフェッツに高く評価され、ジュリアード音楽院への留学を強く推薦されたことだった。茂夫にヴァイオリンの手ほどきを施した父季彦氏はハイフェッツの師レオポルト・アウアーの教授法の熱心な研究者で、その最も偉大な門下生、ハイフェッツの推薦は決定を意味していた。

しかしこのことが悲劇の幕開けとなるとはこの時、誰も思わなかった。ジュリアードで茂夫が師事したアイヴァン・ガラミアンは、近代的合理奏法を推し進めた教育者である。そのため、アウアー流派を強く信奉し、既に完成したスタイルを確立していた茂夫とは奏法上の意見が折り合わなかった。次第に茂夫はアメリカに来た意味を見失い始める。折りしも戦後間もない微妙な時期で、敗戦国からやってきたこの少年に対する周囲の目も相当に冷たいものであったともいう。こうして彼は演奏ができない体になって日本に戻った。時代と巡り合わせによる悲劇という他ない。

彼は10代に満たない頃から既に深い音楽的洞察を行っている。これは残された録音からも明らかである。この天才を授かったわずか10歳そこそこの少年は、ユーディ・メニューインの来日時の演奏を日記中に評して「深みのない演奏だった」と述べている。実演がどうだったかはひとまずおいて、彼がこの感想を抱くだけの確立した音楽を自身の中に持っていたことは間違いない。彼の音色は私の知るすべての日本のヴァイオリニストの中でもっとも個性的で、そして最も美しい。その上、天性に他ならない自然で優雅なフレージングを持っている。もし、演奏活動を続けていれば、と思わずにはいられない。


飽食の時代と言われて久しい現代、レビンや茂夫ほどに才能のあるヴァイオリニストがかように悲劇的な運命を辿ることも少ないだろう。ヌヴーは事故死ではあるが、彼女も含め時代のうねりに巻き込まれ、内面的葛藤を抱えた夭逝のヴァイオリニストには一種独特の凄みがあると思うのは懐古主義に過ぎないのだろうか。