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自己の内面と音楽 | ヴァイオリン掲示板

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雑談・その他 13 Comments
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自己の内面と音楽

投稿日時:2004年02月05日 17:08
投稿者:pochi(ID:EoIkiXM)
自己の内面と真摯に向き合わない音楽家が居るのでしょうか?
自己の内面と真摯に向き合わないで音楽家が出来るのでしょうか?

自己の内面の掘り下げをするから、薬に奔ったり、お酒に溺れたり、最悪の場合は自殺をしたりするのです。友人の多くは事故や病気や自殺で死にました。

tama氏、貴殿も音楽家でしょう。自己の内面を掘り下げたでしょう。私は、自己の内面を掘り下げ、自分自身が如何に品性下劣で知性が無く、痴性的で、恥に塗れた存在で有る事を認識するに至ったのです。

私は、私自身が本当に恥ずかしいのです。若気の至りで疾風の如く「ヴァイオリン弾き紛い」をしていましたが、自分の実力は自分で解っています。私は、下手クソです。日本のプロオケには、ヴァイオリン・ヴィオラで入団する実力は絶対にありません。

生きていること自体が恥ずかしい位ですが、たまたま、この様な場所を提供して下さっている「f Strings」社の掲示板で、私の経験や知識の一部を、皆様と分かち合いたいと思っているだけなのです。

時々、嵩を括った投稿をして、お叱りを受けますが、それは、御鞭撻として甘受致します。

素朴で牧歌的な掲示板になればと、最近努力している心算ですが、失礼な発言であれば、訂正・お詫びをさせて戴きます。
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Re: 自己の内面と音楽

投稿日時:2004年02月05日 22:51
投稿者:天音のパパ(ID:NwcoUGU)
音楽家に限らず、自己の内面とは向きあうのものと思います。
アルコール、ドラッグ、自傷などが、自己の内面に向き合う理由にはならないでしょう。わからなくはないですが、、、、、、、

生きていることは恥ずかしくないですが、何のために生きてるのかは考えて落ち込むことがあります。
[9706]

Re: 自己の内面と音楽

投稿日時:2004年02月06日 02:49
投稿者:kirin(ID:JnA2WZQ)
自己の内面と向き合わない音楽家はいると思います。もちろん、音楽家とは言えない、という話になるかもしれませんが。

音楽は、たとえプロであっても自分のためにやるものだと思います。だからどういうアプローチであろうと、それはその人の自由であり、他人がどうこういうことではないと思います。
たとえば、高橋尚子が今度の国内マラソン大会に出ないということについて、あるテレビでは街で一般の人に感想を聞いていましたが、余計なお世話だと思いました。出る出ないは彼女の問題であり、他人は関係ありません。そのことをどう思うかも自由ですが、それをテレビで放映すること自体、何かマスコミは勘違いしています。

音楽家はやはり人やマスコミからいろいろ言いたいことを言われるでしょう。しかし、音楽とどう向き合うかは自分のことであり、言ってしまえばいわばそういう騒音に惑わされることなく、自分の考えるように、音楽と向き合えばいいのではないかと思います。

*******
アマチュアで好き勝手にやってきた私に関して言えば、音楽は自己表現の手段になりがちですが、決して自分を表現するものではないと思っています。もしそうなら大変醜いものになってしまいます。逆に自分を音楽のための手段にするというアプローチです。宗教用語で言えば帰依でしょうか。曲を、自分という媒体を通すことにより、音という実体として表すことが演奏であり、自分が透明であればあるほど純粋に曲が実体化することになります。如何に自分を媒体の道具として透明にできるかが、上手になるということだと思っていますし、それは自分の中のいろいろな醜いものをなくしていく作業になると思います。

pochiさん、わけのわからないこと書いてしまっていたら、またまた失礼いたします。すぐにわからなくていいと思います。この話自体、私自身ずっと迷って考えていたものですから。とても時間がかかるものだと思います。
[9708]

Re: 自己の内面と音楽

投稿日時:2004年02月06日 03:46
投稿者:pochi(ID:EoIkiXM)
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Re: 自己の内面と音楽

投稿日時:2004年02月06日 02:49
投稿者:kirin(ID:JnA2WZQ)
自己の内面と向き合わない音楽家はいると思います。もちろん、音楽家とは言えない、という話になるかもしれませんが。

音楽は、たとえプロであっても自分のためにやるものだと思います。だからどういうアプローチであろうと、それはその人の自由であり、他人がどうこういうことではないと思います。
たとえば、高橋尚子が今度の国内マラソン大会に出ないということについて、あるテレビでは街で一般の人に感想を聞いていましたが、余計なお世話だと思いました。出る出ないは彼女の問題であり、他人は関係ありません。そのことをどう思うかも自由ですが、それをテレビで放映すること自体、何かマスコミは勘違いしています。

音楽家はやはり人やマスコミからいろいろ言いたいことを言われるでしょう。しかし、音楽とどう向き合うかは自分のことであり、言ってしまえばいわばそういう騒音に惑わされることなく、自分の考えるように、音楽と向き合えばいいのではないかと思います。

*******
アマチュアで好き勝手にやってきた私に関して言えば、音楽は自己表現の手段になりがちですが、決して自分を表現するものではないと思っています。もしそうなら大変醜いものになってしまいます。逆に自分を音楽のための手段にするというアプローチです。宗教用語で言えば帰依でしょうか。曲を、自分という媒体を通すことにより、音という実体として表すことが演奏であり、自分が透明であればあるほど純粋に曲が実体化することになります。如何に自分を媒体の道具として透明にできるかが、上手になるということだと思っていますし、それは自分の中のいろいろな醜いものをなくしていく作業になると思います。

pochiさん、わけのわからないこと書いてしまっていたら、またまた失礼いたします。すぐにわからなくていいと思います。この話自体、私自身ずっと迷って考えていたものですから。とても時間がかかるものだと思います。
kirin氏の投稿には、全く違和感がありません。

私が何故、「ジノ・フランチェスカッティ」や「クライスラー」に憧れるか、私には暖かい内面が演奏に表れている様に思えるからです。

私は、基本的に観客の為にヴァイオリンを奏きます。(観客の反応を見て奏きます)「曲に感謝し、観客に感謝し、その場に感謝して奏きなさい。」これも、徹底的に叩き込まれました。

「観客をカボチャかキャベツ」思ったり、「大衆にはどうせ音楽は解らない」と思うのは、失敗したコンサートの後です。そうでないと、自責の念で身が持たないのです。音楽は絵画や彫刻と違って、奏いている瞬間・瞬間が勝負ですから、終わった演奏を悔やむのは、下らない事です。

しかし、練習の為に録音を行う事は屡々あります。略、最高の録再機器を自宅に備えていました。オーディオには余り興味はありませんが、高忠実度録再機器は、楽器程ではありませんが、結構高価です。特にマイクの選択は非常に難しいと思いました。

録音機器で再生すると、自分の演奏が上手に聞えます。それで、「俺って上手じゃん」なんて思ったら大間違いです。批判の為に聞き耳を立てている人も少なからず居ますから。
[9721]

Re: 自己の内面と音楽

投稿日時:2004年02月06日 12:43
投稿者:かや(ID:FJQmd0M)
なんだか面白そうな話ですね。美術の場合(ぽち氏辺りには一緒にするなと叱られるかな?)作品という形が残ってしまうため、どんなにあがこうが、そこから逃げられないのです。十年前の作品なんか見た日にゃぁ、もう、恥ずかしいやら情けないやら…地球の裏側まで穴を掘って隠れたい(笑)

音楽は録音していなければ、消えちゃいますもんね。ある意味うらやましいかも。ただ、「聴衆に感謝し・・・」と言っておられるぽち氏が「あがり症を克服するには」の中で「聴衆にはわかりっこない」と言うのは、同じ芸術を愛するものとしては淋しいなぁ…と感じましたね。〔9708〕では失敗した演奏に対してと言い訳(だから~怒らないでって。)しておられましたが。芸術を愛している人間がそういうことを公の場で載せてしまうこと事態問題かも?

自分と向き合って恥ずかしくない人とかっているんでしょうかね?
〔kirinさん〕かつて私は、自分を表現するために描くということをやっていました。
そうでもしないと、生きていけないと感じていたからです。そのことを恥じたりはしません。今、かろうじて生きているからです。そんな人間もいるのです。(今は違うけど…)

まとまりのない文章でごめんなさい。
[10083]

Re: 自己の内面と音楽

投稿日時:2004年02月16日 18:13
投稿者:ぎゅん田ー(ID:JxBwWSE)
>音楽は自己表現の手段になりがちですが、決して自分を表現するものではないと思っています。もしそうなら大変醜いものになってしまいます。

私は、まだまだ、未熟なので、音楽は(芸術一般ほとんど)自己表現そのものと思っています。自分を表現すると大変醜いものになってしまうのなら、とても寂しいし、つらいと思います。素晴しい音楽を表現する、そのために自分を媒介にする。もちろん、そうお考えになって演奏されるのは素晴しいことだと思いますが。

自己そのものを丸出ししにしたら、それは混乱のきわみでしょうから、誰でも自分を制御し、表現の仕方を考えて、形にしていくのだと思います。そして作られてきたものが芸術品であったり、音楽であったり、芝居であったり・・・。音楽というものが、人間、から少し離れて存在するもののように(神?)は感じていません。やはり、生きている時間がまだまだ少ないのかな?

私は人間の醜さを愛してやまない、変わった人間なのかもしれません。
それとも、ただの未熟者です。

皆様は、どのようにお考えですか?
[10095]

Re: 自己の内面と音楽

投稿日時:2004年02月16日 20:55
投稿者:TORU(ID:OEmQWII)
[9706]
[9706]

Re: 自己の内面と音楽

投稿日時:2004年02月06日 02:49
投稿者:kirin(ID:JnA2WZQ)
自己の内面と向き合わない音楽家はいると思います。もちろん、音楽家とは言えない、という話になるかもしれませんが。

音楽は、たとえプロであっても自分のためにやるものだと思います。だからどういうアプローチであろうと、それはその人の自由であり、他人がどうこういうことではないと思います。
たとえば、高橋尚子が今度の国内マラソン大会に出ないということについて、あるテレビでは街で一般の人に感想を聞いていましたが、余計なお世話だと思いました。出る出ないは彼女の問題であり、他人は関係ありません。そのことをどう思うかも自由ですが、それをテレビで放映すること自体、何かマスコミは勘違いしています。

音楽家はやはり人やマスコミからいろいろ言いたいことを言われるでしょう。しかし、音楽とどう向き合うかは自分のことであり、言ってしまえばいわばそういう騒音に惑わされることなく、自分の考えるように、音楽と向き合えばいいのではないかと思います。

*******
アマチュアで好き勝手にやってきた私に関して言えば、音楽は自己表現の手段になりがちですが、決して自分を表現するものではないと思っています。もしそうなら大変醜いものになってしまいます。逆に自分を音楽のための手段にするというアプローチです。宗教用語で言えば帰依でしょうか。曲を、自分という媒体を通すことにより、音という実体として表すことが演奏であり、自分が透明であればあるほど純粋に曲が実体化することになります。如何に自分を媒体の道具として透明にできるかが、上手になるということだと思っていますし、それは自分の中のいろいろな醜いものをなくしていく作業になると思います。

pochiさん、わけのわからないこと書いてしまっていたら、またまた失礼いたします。すぐにわからなくていいと思います。この話自体、私自身ずっと迷って考えていたものですから。とても時間がかかるものだと思います。
kirinさん
>自分が透明であればあるほど純粋に曲が実体化することになります

21世紀の社会に暮らしていて、
そこで教育され、情報を与えられているものとして
自分がどこまで”透明”になれるのでしょうか。
また、”純粋”に曲に出会えるでしょうか。
他の場所で議論されているように、
音程一つとっても、
社会的時代的制約があるようです。

純粋に曲に出会おうとして、
既存の演奏技術や既存の解釈を評価してゆくことが
実は大変主観的な行為のような気もします。
かといって、古楽器趣味も肌に合いません。

また、曲とはテクスト(譜面)の事でしょうか。
音楽は、どう”存在”するのでしょうか。

批判ではありません。基本的に賛意を表したい。
私も分からないなりに興味はあります。
21世紀の日本には、
21世紀の日本にしかないBACH演奏があったらいいなと思っています。
純粋とはどういうことか、もう少し書いて下さいませんか。
[10096]

Re: 自己の内面と音楽

投稿日時:2004年02月16日 21:16
投稿者:けいちゃん(ID:MSUHFSk)
高い芸術と認められたものには、いつも伝えられたメッセージへの「共感」があります。享受者の誰もが納得するような普遍的な形として示された芸術が、完成度が高いと言えるのだろうと思います。

演奏者は、表現者であると同時に曲や作曲家の最大の理解者で、聴衆へその共感を伝える仲介者でもあるはずです。自作自演に徹している人(昔の作曲家は皆そうでしたが)などを除いて、脇役として位置づけるべきじゃないのかな、などと私は考えています。解釈はいろいろあっても作曲家の姿を映す鏡として演奏家がある、とすればあまり自分のことにこだわる必要はないのかな、などとも思います。
[10650]

Re: 自己の内面と音楽

投稿日時:2004年03月02日 01:14
投稿者:つる姫(ID:F3YWgSA)
ヴァイオリンを始めて思った事で、凄く関心のあるお題です。

自己の内面と音楽・・・ヴァイオリンを始めるようになってから
自己の内面を掘り下げることが増えたような気がしています。
私の場合、内面に直面したと言う表現が正しいかも知れないのですが

弱さにも愚かさにも直面しました。
でも、そこから「どう向き合うか?」と言う糸口を探すようになりました。
ヴァイオリンを始めるようになってから特にです。
最近はそれが顕著になっている状態です。
[10656]

Re: 自己の内面と音楽

投稿日時:2004年03月02日 03:38
投稿者:kirin(ID:JnA2WZQ)
TORUさん>
> 純粋に曲に出会おうとして、
> 既存の演奏技術や既存の解釈を評価してゆくことが
> 実は大変主観的な行為のような気もします。

うまく書き表わせるかどうかわかりませんが、たとえば、「指輪物語」の本質はどこにあるか、というと、トールキンの書いた英語テキストそのものにはないと思います。もちろんそこからが近道ではあると思いますが、日本語や映画(?)もまた、作品の本質へ至る道の一つを示していると思います。

曲の本質は、いわば概念の世界、抽象の世界にあると思います。しかも、それは演奏によって変化していくものだと思います。私達は音と音の関係から作品の本質を直感的に把握するしかないと思います。それは頭で考えて解釈することとは全く異なります。解釈時におけるような思っている自由はありません。見い出すことしかできません。しかもその見えない本質は、演奏によりその外見を変えていくと思います。すなわち名演が名曲を作るのです。従って時代により曲の演奏スタイルが変わっているのは自然なことです。

最近、Biberのロザリオのソナタやパッサカーリアを聞いています。そしてBachの手書き譜面を見ていると、Bachの無伴奏は、さらに再発見される余地が残っているという気がします。もしかすると古楽器の演奏で既にそういうものがあるかもしれません。これは私の直感です。これが正しいか間違っているかは、普段、概念、真理、美、調和、というものとどうつきあっているか、ということと関係していると思います。(ということは、間違っている可能性が高いということかな?)

また、意味不明のことを書いてしまったかもしれません。
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